大坂の陣 史跡めぐり

自転車でめぐる 大坂冬の陣、大坂夏の陣(暫定公開)  大阪の陣

 2104・2015年は大坂冬の陣・夏の陣からちょうど400年。
かねてより自転車での大坂の陣史跡めぐりを企画し地図作りをしていたのですが、未だ完成に至らず、とりあえず暫定公開することにしました。


大坂の陣

大坂の陣ツアー 資料
1大阪城01大阪城付近.jpg 2鴫野の戦い02鴫野の戦い.jpg
3若江の戦い03若江の戦い.jpg 4八尾の戦い04八尾の戦い.jpg
7最終決戦~真田山07茶臼山・真田山.jpg  

大坂の陣あらすじ



開戦まで

◆関ヶ原の戦い(1600)で勝利した徳川家康は江戸に幕府を開き実質的な最有力者となるが、形式上は豊臣家の家臣であったため一気に豊臣家を滅ぼす事はできなかった。 そこで家康は年月をかけあらゆる方法で徳川家が豊臣家よりも上である事を内外に印象付けさせ、更に豊臣方に寺社の造営などを奨め、豊臣家の資産を浪費させた。


冬の陣

◆1614年、家康は豊臣家が再建した京都の方広寺の鐘に記された銘文の中の「国家安康」「君臣豊楽」の文字を、家康の名を分断して呪い、豊臣を君として楽しむという意味が込められていると言いがかりをつけ挙兵の口実をつくる。 豊臣方は開戦は避けられないとみて「関ヶ原の戦い」で所領を失った浪人衆を大坂城へ招き入れた。 家康率いる20万もの大兵力をもってしても堅固な大坂城を攻め落とす事は出来ず膠着状態になり、家康は豊臣方に講和を要請、成立。
 しかしその講和そのものが家康の計略であり、講和の条件を破り大坂城の堀をすべて埋めてしまう。


夏の陣

◆1615年、家康は更に豊臣秀頼に大和か伊勢への転封を強要、豊臣方が拒否したため再び挙兵した。 堀を埋められた大坂城はもはや防御力は無く、豊臣方は野戦にうって出るが、奮戦空しく5月8日に大坂城落城、秀頼・淀殿母子は自決し豊臣氏は滅亡した。



●冬の陣 史跡


◆今福・鴫野の戦い


大坂冬の陣で豊臣方は篭城作戦をとる。大坂城は西は海、北は川、東は湿地帯の為、大軍が攻める事が困難だが、南は天王寺口に至る台地になっていて、攻め手はそこをついて来ると予想された。真田幸村はその城の南側に真田丸と呼ばれる砦を築き陣を張る。この砦から敵を挑発しワザと攻めさせ引き付けてから鉄砲で撃退するなど徳川軍に大打撃を与えた。
三光神社には大阪城まで繋がっていたという「真田の抜け穴」が残されている。   


◇佐竹義宣本陣跡(若宮八幡大神宮)
◇鴫野古戦場跡碑
佐竹義宣
 関東常陸の戦国大名、佐竹氏の所領は北条氏と伊達氏に挟まれ苦しむが、秀吉の小田原征伐を機に秀吉の傘下に入り、豊臣政権下では徳川・前田・島津・毛利・上杉と並び六大将と呼ばれた。石田三成と親交があり加藤清正らが画策した三成襲撃から救った。関ヶ原の戦いでは態度を決めかね中立的な振る舞いをした事が仇となり、常陸54万石から出羽秋田20万石に減封される。

大坂冬の陣では徳川方につき大坂城の東側に布陣、後藤基次・木村重成の隊と激しく戦い壊滅寸前に追い込まれたが上杉隊の援軍もあって持ち堪えた。



●夏の陣 史跡


堀を埋められた大坂方は野戦にうって出た。

◆若江の戦い


木村重成・長宗我部盛親の隊は大坂城の南方に集結するであろう徳川軍の側面を攻撃すべく若江・八尾方面に進軍した。進軍中にこれを知った藤堂高虎・井伊直孝の隊は家康・秀忠本陣を直接奇襲する部隊と察知し迎撃、激しく戦った。


◇木村重成像
◇木村重成の墓
木村重成は幼少より豊臣秀頼に小姓として仕えた豊臣家譜代の重臣。容姿端麗な若武者だったといわれる。
大坂冬の陣では初陣であったが今福の戦いでは怯む事なく戦い後藤又兵衛と共に徳川軍の佐竹義宣隊を苦しめた。
夏の陣では死を決し、髪に香を炊き込め、被った兜をもう脱ぐ事はないとその結び緒を切って出陣。若江の戦いで井伊直孝軍との激闘の末討死。 その首級は後に家康に検分されたが、そのとき頭髪から香が薫りたち家康は大いに褒め称えたという。


◇飯島三郎右衛門の墓
飯島三郎右衛門
河内高井田の郷士。弓術の使い手だったともいわれる。
大坂夏の陣では地元である中河内の道案内役をし、井伊直孝軍の山口重信の部隊と戦い討死。


◇山口重信の墓
父・山口重政は常陸牛久の城主であったが嫡男重信の縁組が幕府の許可を得ていないと咎められ改易させられた。
重信はお家再興を目指し伊直孝軍に属して若江の戦いで奮闘し武功を挙げたが討死、戦後それらの評価もあり山口家は常陸牛久の大名に返り咲く。


◆八尾の戦い


◇高塚地蔵
長宗我部軍の先鋒吉田内匠(重親)がこの地蔵の影に潜み、通りかかった高虎の家臣藤堂式部(家信)に襲い掛かるが返り討ちにされたという伝承がある。


◇常光寺
夏の陣で藤堂高虎が布陣した。 この寺の縁側で敵の首級を検分する首実検が行われ、その血の染み付いた縁板が後に天井板に転用され「血天井」として伝わる。
藤堂高虎軍の71士の墓がある。


◇長宗我部盛親物見の松碑
久宝寺御坊寺内町の一角にある。
久宝寺の寺内町は中立を押し通したため長宗我部軍は町中に入る事が出来ず町の外側に布陣した。かつてここにあった大松に登り敵軍の動きを見定めたといわれる。

長宗我部盛親
土佐・長宗我部元親の四男。 豊臣秀吉の死後程なくして父元親が死去。諸大名が秀吉亡き後の政略争いに動く中、家督継承の雑務に忙殺され時流に取り残される。 関が原の戦いでは徳川方(東軍)に付く事を画策するが果たせず成り行きのまま西軍に与することになる。しかし西軍ながら徳川に内応していた吉川広家に前方を居座られ身動きがとれず戦わずして敗退。所領を没収され浪人に。 大坂の陣では長宗我部家再興を賭けて大坂へ入城。夏の陣・八尾の戦いで藤堂高虎隊を壊滅寸前にする活躍を見せるが他部隊が敗北したため退却。 翌日は天王寺での決戦には参加せず大坂城の守備につくが天王寺での豊臣方の敗北を知り再起を図って逃亡。 しかし逃亡中に捕らえられ斬首された。 最期までお家再興への執念を絶やさなかったという。


藤堂高虎
何度も主君を変えた事で知られる。
秀吉恩顧の大名ながら秀吉死去に前後していち早く家康に接近し、外様ながらも献身的な働きにより家康から高い信頼を得た。
築城の名手としても知られ、大坂への備えとして伊賀上野城の改築などを手がける。
大坂冬の陣では真田丸・谷町口の攻防で破れ、夏の陣では八尾の戦いで大損害を受けた。



◆道明寺の戦い


徳川軍主力は大和川沿いの国分を抜けて大坂に入ると考えられた。
そこで大坂方は徳川軍が平野に出る前の隘路で待ち受ける事を画策した。


◇後藤又兵衛基次之碑
後藤基次
通称又兵衛。黒田官兵衛の家臣で功多く重用されたが、官兵衛の嫡男長政との折り合いが悪くやむを得ず黒田家を出奔、 多くの大名から召し出しがかかったが長政からことごとく妨害された。
大坂冬の陣では木村重成と共に大坂城東方を守りぬいた。夏の陣では南河内・国分方面で徳川軍団を迎え撃つ作戦だったが後続部隊の到着が遅れた為に孤立、最終的には10倍にも及んだといわれる徳川の大兵力の前に孤軍奮闘したがやがて力尽き壊滅、自刃した。


◇小松山古戦場碑
◇奥田忠次の墓
大和国内に所領を持っていたため大和路であるこの地の戦いで先鋒となり、小松山で後藤基次に討たれた。




◆誉田の戦い




◇誉田八幡宮・薄田兼相の墓
薄田兼相は豊臣氏の家臣で、冬の陣では博労淵砦の守備を任されたが遊女屋で泥酔している間に砦が攻め落とされてしまい、橙武者(なりは立派だが正月の飾り程度にしか役立たないという意)と嘲られた。◇夏の陣ではその汚名返上のために奮闘し道明寺の戦いで戦死。誉田八幡宮は夏の陣で兼相が布陣した場所。


◆天王寺・岡山の戦い


後続部隊が遅れて到着したために各個撃破されてしまい、翌日の最終決戦に向けて撤退をしなければならなくなった。

◇樋ノ尻口地蔵
夏の陣で、真田幸村が道明寺の戦いから撤退し天王寺口へ向かう途中、家康は必ずこの平野郷で休憩するとみてこの地蔵に爆薬を仕掛けたとされる。目論見どおり家康はここで休憩したが用足しで離れてる間に爆発し、危うく難を逃れたという伝承がある。 

◇全興寺
爆発して飛び散った樋ノ尻口地蔵の首が飛んできたとされる。現在も首地蔵としてこの寺に奉られ、年に一度だけ公開される。

◇安藤正次の墓




◇一心寺
大坂夏の陣・天王寺での最終決戦で、徳川軍は圧倒的戦力であるにもかかわらず、ひときわ突出する部隊があった。本多忠朝の軍勢である。
先の「大坂冬の陣」で家康から酷く叱責を受けたた忠朝は、死をもってその汚名を晴らそうとしたという。忠朝は開戦の火蓋を切り正面の毛利勝永隊に突撃、堂々たる最期を遂げる。
死の間際に己の酒癖の悪さを悔やみ「憎むべきは酒なり。今後わが墓に詣でる者は必ず酒嫌いとなるべし。」と言ったことから、一心寺にある忠朝の墓は酒封じの神として知られている。

◇安居神社
天王寺口での最終決戦で真田隊は圧倒的な大軍に守られている家康本陣目掛けて3度にわたって突撃し家康本陣を大混乱させた。安居神社は真田幸村が討死した場所とされる。

  • 最終更新:2015-04-10 00:27:36

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